戸澤の週報
2025年12月13日
運を考える
並木のイチョウは、葉が大部分落ちてしまいました。
この週末は久しぶりに味わう冬本番の寒さとなり、いよいよ年末がそこまで来ています。
毎年のことながら、冬の受け入れ、今年が終わることを受け入れることは難しく感じます。
今まで生きてきて、気になっていることの一つが「運」です。
運というと宝くじのような非常に確率が低いものに当たるもののように考えがちですが、ここでは少し違います。
もう少し、自分の手を離れたところで、運命を好転させるようなものです。
幸運と好運の違いのようなもので、今回取り上げたいのは後者の方です。
運を考えると、どうしてもセットで考えなければいけないのが「逆説的呼応」の考え方です。
人は誰もが自分にとって状況を良くしたいと思うので、運が良いことを望みます。
しかし、望めば望むほど好運は遠くに行ってしまい、状況が悪化することがあります。
我々はつい毎日の生活の中で視点が一人称(私)になりがちですが、第三者の目線を取り入れてみると違って見えてきます。
親鳥を待つひなも、大きな鳴き声を出し、他よりも少しでも長く首を伸ばしているひなが一番多く餌をもらいます。
アリの世界でも一番長い時間餌を求めて働いているアリが一番餌を獲得します。
雛もアリも運を良くしようと思い頑張っていることは無く、ただ一生懸命に生きるために一心不乱に力を尽くしているのだと思います。
人間も同じです。
運を自分から求めている内(もしくは自分は不運だと嘆いている内)は、逆説的呼応の法則によって、好運から離れていってしまいます。
そうではなく、むしろこれでもかというくらいに状況を良くするためのインプットを、量も質も両方考えて行います。
それでもなかなか状況は改善しません。
しかし、そこでもあきらめずにしつこくやり続けていると、どこかで誰かが良い意味であきらめて、少しずつ好転してきます。
誰がこれを決めているかは難しい問題です。
神様なのか、宇宙の創造主なのかはわかりません。
ここでは、「株式会社運を決めるカンパニー」だとしましょう。
同社はとても気まぐれで、本人が驚くほど努力していたとしても、なかなか気が付いてくれません。
中にはその過程で、努力することをあきらめてしまう人も続出します。
それでも、簡単に認めないのは、そもそも人間社会が競争であるからです。
人はあるところで、今後生き残っていくために必要なレベルまで成長しなければならないのですが、それが思いのほか高いレベルなのです。
同社は、そのレベルに達するまで、気が付かないふりをしてくれているのではと、最近では思うようになりました。
あきらめそうになった時に、少し思い出して頂けると良いかと思います。









