戸澤の週報
2025年06月14日
お坊さんに教えてもらう学びの境地
関東も梅雨入りしたようです。
この週末は大雨が予想されています。
雨を楽しむ方法があれば良いのですが、なかなか思いつきませんね。
学ぶということは何なのかと求めていると、柳澤眞悟師という大高僧のお話に出会いました。
師は奈良にある吉野山・金峯山寺(きんぷせんじ)におり、我々からはとても考えることのできない修行を満行させた方です。
まずは百日回峰行という修行を行います。
吉野山・金峯山寺の蔵王堂から大峯山頂(おおみねさん)の本堂まで片道24キロ、標高差1,355メートルを100日間往復するものです。
起床は午前1時、滝に打たれた後、修行装束に着替え毎日出発し、戻るのは大体午後の3時くらいです。
90日目くらいで消化不良で体調を壊し、ご飯が食べられなくなり、水すら飲めない中、3日程断食しながら歩いてとうとう山中に倒れてしまいます。
そんな時に同じ修行をしていた方に励まされて、何とか起き上がり、一歩踏み出したら不思議と歩き続けることができて、その後100日間の修行を終えることができました。
それでも師は、何も得るものがないと感じ、2回目の百日回峰行に入ったそうです。
ところが2度やってもやはり納得できなかったので、今度は千日回峰行に挑戦し、8年かけて満行しました。
ある時、山の中で倒れ、頭の中で血液がサラサラと流れる音を聞いて「自分は死ぬんだな」と思ったのですが、10分~15分したら自然と力が戻り、また歩き出していたということです。
その時に、捉えたのが「自分であって自分ではない」感覚だったようです。
その時に今まで気にしていたものが気にならなくなり、考えることをしなくなったと言います。
行で何かを得ようという気持ちが無くなり、無心になったんだそうです。
最後に残ったのは修行をさせてもらいただありがたい、幸せだという感覚だったようです。
そして、1,000日回峰行を満行しました。
私達は柳澤師のように厳しい修行をするわけにはいきません。
それでも、人生における修行はしているはずですが、なかなかうまく行かないことが一杯あります。
改めて考えてみると、「何かをやって見返りを求めている時」にうまく行かないことが多いのかもしれません。
見返りとは、自分の能力を認めてもらうことや感謝の言葉をかけてもらうことなどが考えられます。
相手に何かをしてもらうことを期待する。それもまた、見返りと言えるでしょう。
見返りとは、外の世界を軸に考える結果の物だと思います。
そうではなく、内の世界である自分自身が納得するかで考えれば、違った世界が見えてくるのかもしれません。
現代を生きる私たちは、外の評価や結果を求めすぎてしまうことがあります。
けれど、自分自身が納得できるか——その視点が少しでも持てれば、働くことの意義や生きやすさに繋がるヒントになるのかもしれません。